hitoriの卵焼き

砂糖味、塩味、しょうゆ味、不思議な味。あなたはどれが好きかな。

九十七日目  レフ・トルストイ   「自分を大切にする」の真実

九十七日目  レフ・トルストイ

 

     人々は愛によって生きているが、
     自分に対する愛は死の始まりである。
     これにひきかえ
     神と万人とに対する愛は
     生の始まりである。


  あなたはとてもお腹がすいていて、
  手元にパンが一つある。
  食べようとした時、飢えて倒れかけた人を見つける。
  あなたはどうするだろうか。

  周りにはほかに人はいない。
  あなたが自分のパンを一人で食べても
  誰も批判などしない。
  今このパンを分け与えたとしても
  相手が助かるかどうかはわからない。
  あなたがパンを食べると
  元気を取り戻し、
  多くの人を手助けする力になるかもしれない。

  こころの中には葛藤が生まれる。

  真実の善は、見ている人がいるいないに左右されないもの。
  善を行なえる時に、それから目をそむければ
  その記憶がいつまでも追いかけてくることになる。
  それは幸せをむしばんでくるのです。

 

     人間にとって最高の幸福は、
     一年の終わりにおける自己を、
     その一年の始めにおける自己よりも、
     遥かに良くなったと感ずることである。


  自分にできることは何か、
  自分が喜びを感じる生き方は、どういうことなのか、
  人間は自分のためだけに生きるのか、
  仲間を支えるために生きるのか、
  見えるものではなく、
  見えないものに目をとめているのか、
  つい忘れてしまいがちな心を絶えず見守りたいもの。
  


     人間は、すべての可能性を
     自分の内に備えている。


  一人でパンを食べて罪悪感を感じるよりも、
  二人でわずかだけど空腹感を満たし、
  喜びを感じる。

 


     思いやりはあらゆる矛盾を解決して、
     人生を美しくし、
     ややこしいものを明瞭に、
     困難なことを容易にする。


  その倒れた人が嫌いな人、民族、敵であっても、
  愛を示すことに障害にはならない。

 

     人間が死んだり、金銭を失ったり、
     家がないとか、財産がないとかいうことが、
     哀れなのではない。
     なぜなら、これらすべてのものは、
     人間にもともと備わっているものではないからだ。
     人間は、自分の本来の財産、最高の財産、
     すなわち「愛するという才能」を失った時が、
     哀れなのである。

 

  「自分を大切にする」ということが叫ばれているけれど、
  その本質を見間違えてはならないと思う。